2024年
7月
07日
日
年間第14主日
「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」 (エゼキエル2・2より)
きょうの表紙には、第一朗読箇所エゼキエル書2章2-5節にちなみ、エゼキエルの召命の場面を描くステンドグラスの図が掲げられている。エゼキエルの召命は、この書1章~第3章で述べられる。この書の特色として、「わたし」というエゼキエルの一人称で、主の栄光の現れを見た様子(1・4-28)が語られ、2章の初めで、彼は主の声を聞く。「彼はわたしに言われた。『人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる』」と。このことばは、今回の朗読箇所の最後の2章5節で終わらずに8節まで続く。8節の末尾では「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」となっており、それに対してエゼキエルは「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか」(9節)と語る。結局、主はこの巻物をエゼキエルに食べさせ(3・1-3参照)て、彼を預言者とするのである。
ステンドグラスのエゼキエルには、右上の白い部分から手が差し伸べられ、巻物が差し出されてエゼキエルの口に向けられている。この2章初めから3章初めまでの一連の内容がここに集約されて描かれている。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」(2・3)に始まるエゼキエル召命と派遣のことばは、巻物を食べさせたあと、再び3章4節から11節まで続く。その中でも「イエスラルの家は、あなたに聞こうとしない」(3・7)と、主に対する民の不従順が告げられる。2章のことばの中で、イスラエルの民は「反逆の民」と繰り返し呼ばれるのとそれは同じである。エゼキエル書の時代背景であるバビロン捕囚という出来事は、神に対する民の不従順にあった、という見方が根底にあり、エゼキエルが預言者として召されたのはこの民に回心を呼びかけるためであったのである。このような主のことばにおいて、また、同時に預言者エゼキエルの苦難も予告されている。
このような預言者の使命、宿命において、エゼキエルはイエスの姿を前もって示す存在として教会では受け止められている。それゆえに、きょうの福音朗読箇所マルコ6章1-6節で、故郷に帰ったイエスに対する周囲の様子を見て、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ6・4)と語るイエスの姿の背景に、我々はエゼキエルを見つめるのである。
さて、ステンドグラスでは、エゼキエルの前には不思議なものが描かれている。上下に四者いるが、興味深いのはそれぞれ四つの顔が重ねて描かれていることである。これは、エゼキエル書1章で語られる主の栄光の現れに同版している四つの生き物である。「彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた」(エゼキエル1・5-6)。その四つの顔は、人間、獅子、牛、鷲の顔である(1・10参照)。
この生き物の姿は、後に新約聖書の黙示録4章に出てくる天上の玉座を囲む四つの生き物とも似ている。その場合、それぞれが獅子、牛、人間、鷲のようであり(黙示録4・7参照)、それぞれが六つの翼があるとされる(同4・8参照)。ここには、イザヤの召命が語られるイザヤ書に出てくる六つの翼を持つセラフィム(イザヤ6・2参照)のイメージも取り込まれている。イザヤでは、そのときのセラフィムの賛美が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ6・3)で、黙示録では「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主。かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4・8)である。いうまでもなく、我々のミサの感謝の賛歌(サンクトゥス)のもとになっている賛美句である。
預言者を遣わす主なる神の姿は絶えず、そうした不思議な存在によって常に賛美が向けられている存在である。我々が今、新しい式文で「聖なる、聖なる、聖なる神、すべてを治める神なる主」と歌って賛美するとき、イザヤやエゼキエルの召命、黙示録における天上の礼拝を思うのがふさわしく、また味わい深いものとなろう。我々は絶えず主日ごとに主のみ前に呼ばれ、そこから、再び派遣されていくのである。
参照元 : オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240602.html
2024年
5月
19日
日
聖霊降臨の祝日
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった (使徒言行録2・3より)
聖霊降臨
黙示録挿絵
ドイツ バンベルク国立図書館 11世紀初め
聖霊降臨の場面を描く図である。それぞれの画像要素がはっきりしている。天から突き出している半円の光輪(三層で、各層とも色のグラデュエーションになっている)は父である神の次元を示すもので、そこから鳩が真下に降りてくる。また12本の光の放射がある。使徒たちの12人と対応する。画面下の部分の12人の使徒は、各頭上に炎が記されている。
このような描き方の典拠は、もちろん、きょうの第一朗読箇所である使徒言行録2章1-11節にある。その「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1-4節)。「炎のような舌」が使徒たちの頭の上にあり、それが聖霊に満たされたことのしるしであるところから、天からの聖霊降臨の様子、半円の光輪、鳩、光の放射といった要素で描き出していることにある。上の部分の背景は青い色、これは聖霊の満ちている次元の意味だろう。そして使徒たちの生きる地上世界だが、輝かしい金色で満たされている。神の栄光が地上を覆い、満たしているということの表現である。
使徒たちが抱えている本は、宣教のことばを象徴している。中央側の二人の使徒が一つの本を持っているところには、ここに福音があること、神のみことばであるキリストがいることを示しているのかもしれない。そうすると、この絵の中心には父と子と聖霊の三位一体、そして使徒たちの横の一致が交差して描かれているともいえる。ただ、使徒たちは、この出来事に驚いている節がある。互いに顔を見合わせて、何事が起こっているのか、と心の声で言っているようである。それはこの絵のユーモラスなところで、ここにまさしく神のみわざがあることを逆にあかししているようでもある。
使徒言行録2章1-11節は、聖霊降臨をイエスの復活から五十日目の歴史的出来事として述べているが、このことを絵とともに味わうと、単にそれが一時の出来事ではなく、キリストと使徒たちをはじめ教会がいつも聖霊によっていること、信者の使徒的活動の原動力が聖霊であることを再認識することができる。この関係性を説き明かすのが、聖霊降臨の主日の福音朗読箇所である。
今年B年の福音朗読箇所であるヨハネ15章26-27節、16章12-15節はまさしく、そのような聖霊の存在と働きを語っている。ここで、イエスは、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(15・26)として「真理の霊」、すなわち聖霊を語る。「弁護者」はギリシア語の原語「パラクレートス」に従って直訳するなら「そばに呼ばれた者」となり、あなたがた(使徒たち、信者たち)の近くにいて助ける方、今日的にいえば寄り添う方として、聖霊を示す語である。「真理の霊」という語も難解だが、ヨハネ福音書で、真理とは、実質的にはキリストを意味しており(ヨハネ1・17「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」参照)、またギリシア語の真理(アレテイア)には、真理の覆いを外して明らかにするという意味合いがあることを考えると、真理であるキリストを明らかにし、人々に悟らせるという聖霊の働きが表されている。朗読箇所の後半で、「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)と述べられるのは、まさにその働きである。「悟らせる」に注目するとき、この絵が天からの光の放射という形で聖霊降臨の意味を表していることも理解できる。使徒たちの心を照らす、聖霊は、まさに光だからである。
ちなみに、きょうの福音朗読の内容は、堅信の儀のときの祈りの中の「今、この人々の上に助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心をお与えください」ともよく響き合う。「助け主」と訳されているのは「弁護者」のことで、知恵と勇気以下は、イザヤ11章2節「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」がもとにある、いわゆる聖霊の七つの賜物を語るところである。これらを通じて「弁護者」であり「真理の霊」である聖霊の働きが十二分に語られていることになる。
このような聖霊の賜物が注がれ、宣教に向かおうとする使徒たちの姿は、洗礼・堅信を通して、同じ聖霊を受けている我々の姿をも表すものと受けとめなくてはならない。この聖霊の働きを我々自身のうちに生き生きと感じながら、宣教の使命についての黙想を深めていこう。
参照 : オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240519.html
2024年
3月
28日
木
聖木曜日
主の晩餐の夕べのミサ
千葉新司祭による聖木曜日のミサが捧げられました。
「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
アーメン
2024年
3月
21日
木
ペトロ 千葉 充 助祭 司祭叙階式
3/20 午後2時からカテドラルにて千葉助祭の司祭叙階式が行われました。
おめでとうございます。
細くて狭い道を迷わないように神が照らしてくださいますようにお祈り申し上げます。
アーメン。
2024年
2月
18日
日
四旬節第一主日
この水で前もって表された洗礼は、今や……あなたがたをも救う (一ペトロ3・21より)
ノアの箱舟(上)とキリストが導く救いの舟(下)
ステンドグラス
パリ サンテティエンヌ・デュ・モン教会 16世紀
表紙絵は、第一朗読で読まれるノアの洪水と契約の出来事(創世記6~9章)にちなみ、ノアの箱舟と、イエスによる救いの意味を対照させて描く出すステンドグラスの一場面である。ノアの箱舟は、上のほうに(しかも奥のほうに)描かれている。これがいわばイエス・キリストによる救いと新しい契約の前表(予型)として描かれている。もちろん、旧約でイメージされる舟はかなり大きなものであるのに対して、ここでは、ボート(小舟)のイメージである。右側に青い衣を着て、右手で杖を持っているのがノアである。
この旧約の光景に対して、前景には、イエスが左側の舟の先頭にいて、舟の中には、たくさんの人々が描かれている。その衣装を見ると、教会の司教らしき人もいれば、16世紀のフランスにおける比較的身分の高そうな人々の姿も見える。いわば、その時代の社会を映し出す形で世界全体が、一つの舟のイメージで描かれているといってもよいだろう。その意味では、旧約のノア、イエス・キリストの時、そして、“現代”の教会ないしキリスト教社会がこの図をもって、重ね合わされているとも言える。“現代”の舟の中央の帆柱の上に、鳩の図が描かれているのは、キリストに導かれるこの世界は、聖霊によっても導かれていることを象徴的に描いているのだろう。
きょうの朗読箇所の中で、ノアについては、第一朗読と第二朗読で二度言及される。
第一朗読についてだが、まず一般論として、四旬節主日の第1朗読の配分のしくみを見ておく必要がある。
それは、旧約における救いの歴史のいわばダイジェスト的な想起となっているのでしる。B年の今年の展開は、第1主日にノアの契約、第2主日にアブラハムの試練、第3主日に十戒、第4主日にユダ王国の滅亡と回復、第5主日に新しい契約の預言が想起される。これは必ずしも年代順の振り返りではなく、旧約の歴史にあったイエス・キリストに向かっていく、それぞれの代表的局面(前表、予型)の想起といったほうがよい。目的はいかにしてキリストが神の計画の成就、時が満ちての、その実現であるかを知ることにある。
きょうの第一朗読箇所である創世記9章8-15節の場合は、ノアに代表される人類とすべての生き物との間に結ばれた契約(いわゆるノアの契約)が結ばれるに至った決定的な経緯としての洪水に触れつつ、むしろ、肉なるものを(生き物)を決して滅ぼすことはしないという契約の内容と、雲の中の虹がそのしるしとなることが述べられている。救いの歴史は、神の人類との契約の歴史であることが明らかにされ、イエスによって結ばれる新しい契約の意味を考えるために大変大切な箇所である。
第二朗読箇所である一ペトロ書3章18-22節の中で、ノアの時代の箱舟が想起されて語られている。変わった述べ方のようだが、「箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました」(20節)と語ることで、洪水と洗礼との関連づけをもって語られている。すなわち、洪水の水で「前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う」(21節)ということである。ここに「前もって表された」と書かれていることが、まさしく旧約の出来事をキリストの出来事の前表(予型)と解釈する見方の典型的なものである。ここでは、ノアの洪水と箱舟が、キリストの死と復活、そして教会で行われる洗礼の秘跡にとって、その意味を暗示するものとして語られているのである。8人の救い(創世記7・13参照)、そして救いの箱舟という見方から、洗礼堂が八角形で造られたり、聖堂の中央の会衆席空間を指す部分をラテン語で舟を意味するナヴィス(英語ネイブ)と呼ばれたりする慣習が生まれている。神の救いの計画の味わい方の伝統と言えるだろう。
現代では、人類の乗る地球という箱舟は揺れに揺れている。神の計画の深さとキリストの死と復活の出来事が持つ意味の豊かさに心を向け、キリストの導きと聖霊の促しを求めながら、この四旬節を祈りの時としてしてゆきたい。
参照 : オリエンス宗教研究所
2023年
11月
05日
日
年間第31主日
「仕える者になりなさい」(マタイ23・11)
今日は「死者の日」のミサをケン神父様によって行われました。
この1年間で帰天された月寒教会の諸聖人のお名前を読み、皆でお祈りいたしました。
私たちも永遠のいのちへ招いておられるキリストと諸聖人の食卓に交わることができますように。
また、今日はケン神父様の霊名記念である10/16「聖ジェラルド・マイエラ」のお祝いとして
月寒教会信徒から霊的花束と生花をお贈りいたしました。
ケン神父様、霊名記念日おめでとうございます。
「修道士の鏡」として貧しい人や病人をご奉仕し多くの回心を促した聖ジェラルド・マイエラを模範として
司祭生活をおくることができますようにお祈りいたします。
アーメン
2023年
5月
28日
日
聖霊降臨
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…… (使徒言行録2・1より)
四旬節、復活節を経て教会は聖霊降臨祭を祝います。
日々、典礼で読まれる聖書に触れながら、イエスの受難、十字架の死、復活を通して、祈り、黙想しながら神様の救いの御業(みわざ)をみてきました。
主の昇天後、弟子たちは約束された聖霊を待ち望みながら、エルサレムの町の一つの家に集まり心を合わせて熱心に祈っている姿が使徒言行録に描かれています。婦人たち、イエスの母マリアもおられます(1:14)。
聖霊降臨祭は、教会の誕生を祝います。心を合わせて一つになって祈る姿は、教会の姿の基本ではないでしょうか。弟子たちは、過越祭から五十日目に当たる五旬祭に至るまで、主の過ぎ越し、復活の神秘について日に日に思いを巡らしていったことでしょう。
使徒言行録2章では、五旬祭の日、激しい風が吹いてくるような音、炎の舌が分かれ分かれに現れ、一人一人にとどまり、皆、聖霊に満たされて霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出します。その様子を絵の上半分は表しています。雲は、神の現存を示し、7つの炎は聖霊の7つの賜物(上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬)を示しています。炎の舌を与えられ、聖霊に満たされてみ言葉を宣べ伝える力を受けた弟子たちは、聖霊に導かれて外に向かって扉を開けて宣教に出発します。私たちも教会で典礼にあずかり、救いの神秘を祝い、心を一つにして祈り、聖霊に満たされてみ言葉に生きる力をいただいています。ですから、心の扉を開けて信仰の喜びを伝えていけますようにと願いを込めています。
この表紙絵は、2012年度の週刊『こじか』誌で連載させていただいた「扉を開けてー光さすところへ」というタイトルで、旧約と新約聖書の響き合いをテーマにした内容の締めくくりに描きました(2013年2月10日付)。そのテーマの扉は、聖書の扉を開けて、聖霊に心を開いてという意味合いも込めました。
「わたしたちも心を一つにして神様をたたえる喜びを受けましょう。
さあ扉をあけて信仰の喜びを伝えていきましょう。」(作品タイトル)
(作家 原田陽子 記)
聖書朗読箇所について(『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
聖霊降臨と呼ばれる出来事を伝えるのはきょうの第1朗読箇所である使徒言行録2章1-11節。祭日である「聖霊降臨の主日」では、この箇所がA年、B年、C年を通じて、いつも読まれる。この出来事の背景を知るためには、その前の1章12-26節も重要である。使徒たちはエルサレムに戻ってきて、ある家に泊まっていた。そこで、イスカリオテのユダが抜けて11人になっていた使徒団の中で、新たにマティアが選ばれて加入する。ここを踏まえると、聖霊降臨の場面にいる使徒は12人となる。この聖霊降臨を描く絵は、表紙絵の上の部分のように「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という使徒言行録2章3節の叙述を主題に、天から注がれる聖霊を鳩の姿で描き、その口から出る炎が使徒たち(その中央にマリアが描かれることもある)の頭上に注がれるという形で描かれることがしばしばである。
使徒言行録は、聖霊降臨をイエスの復活から50日目の歴史的出来事として描くが、決して、過去のひとときに起こった一種の奇跡としての意味を持つわけではない。ここで描かれているのは、キリストと教会の普遍的な恒常的関係を実現させる聖霊の存在とその働きが描き出されている。これは、聖霊降臨の主日の福音朗読箇所が、いずれもヨハネ福音書から読まれることとも関係する。
その最も典型的な朗読箇所が今年A年のヨハネ福音書20章19-23節である。イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」という場面(20・22参照)である。ここには、もちろん創世記の伝える人類の創造の場面が背景にある。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2・7)である。小さな空間の中での復活したイエスと弟子たちとの間になされた聖霊の授与の行為が、全人類史的な転換の意味を持っていく。ここに教会、神に生きる人類の誕生がある。キリスト者は共同体として、聖霊の働きのもとに導かれているが、このことを生き生きと感じられるのは、もちろん、典礼においてであろう。典礼の集いと心を合わせて祈るその祈りは、まぎれもなく聖霊の恵みであり、この祈りを通して聖霊の働きを生き生きと感じつつ、我々はキリストと結ばれている神の子どもたちであることを実感することができる。
このような意味で、聖霊降臨は、教会の誕生(この日の集会祈願参照)の記念でもある。そして、使徒言行録の叙述でも、聖霊は、一同を一つにするとともに、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(使徒言行録2・3)と、一人一人の個性や人々それぞれの故郷の言葉による宣教の始まり(6節)が語られている。個性豊かな使徒たちの宣教の始まりである。教会には、きょうの第2朗読箇所(一コリント12・3b.12-13)が教えるように、多様な賜物、務め、働きがあるが、すべて一つの霊によって一致している。
聖霊、そしてキリストの体による一致と個々の使命への派遣、教会の生き生きとしたあり方の核心をなすことが、きょうの聖書朗読を通して語られ、この、神に活かされる生命力といったものが表紙絵の彩りの豊かさと同時に、しっかりとした構図を通しても十二分に感じられる。聖書のことばとともに、味わっていこう。
参照 オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html
2023年
5月
07日
日
復活節第5主日
わたしは道であり、真理であり、命である (ヨハネ14・6より)
マリア様の月に入り、マリア様に冠を被せる「戴冠式」がケン神父神父様りより行われました。
2023年
4月
30日
日
復活節第4主日
わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(ヨハネ10・10より)
良い羊飼いと羊の群れ
石棺彫刻(部分)
ローマ ラテラノ美術館 3~4世紀
復活節第4主日は伝統的に良い牧者(羊飼い)の主日と呼ばれており、現在もA年・B年・C年ともにヨハネ福音10章から朗読箇所が選ばれている(A年=10章1-10節、B年=10章11-18節、C年=10章27-30節)。このことから全体を通して、自分の羊を呼び、導く羊飼いに対し、その声を聞き分け、従う羊たちという関係がこれらの箇所を通じて主題となっている。復活節の朗読の展開としては、新しく入信した人々とともにすべての信者が神に導かれる民としての心やあり方を新たにするという位置づけにある。それとともに、ここは、神からの召命を聞き分けるという主題にちなんで、世界召命祈願日ともされている。
復活節第4主日のこの特徴に関連して、表紙絵では、良い羊飼いとして描かれる古代キリスト教美術の作品をおもに鑑賞している。羊を肩に担ぐ羊飼いの姿は、初期キリスト教美術で数多く描かれている。この主題は、ギリシア・ローマ美術に由来するものだが、キリスト教においては、特にこのヨハネ10章の譬えを踏まえて、信者の魂を担い導く救い主の姿として描かれていった。とくに、カタコンベ(地下墓所)の壁画や、石棺の彫刻によく描かれている。このように、死者に関係する場に描かれたのは、異教芸術にはなかったキリスト教美術の特徴といわれる。これは、羊飼いのうちに、死者の魂を天に運び、来世への旅路に待ち受ける悪霊の力に打ち勝つ救い主の姿を託したものといわれる。ここには純粋に聖書的なイメージというより、死後の幸福を願う、どの民族にもある観念も流れ込んでいたであろう。キリスト教美術とはしばしばそのようなもので、それによって、キリスト教の教えを人々の身近な生活感覚や心の中に浸透させていった。そのことによって、現代の我々にも、核となる福音のメッセージとともに、その時代を生きた人々の心の綾(あや)を垣間見させてくれるのである。
牧場の風景を楽園の光景として描くという、もう一つの異教芸術の伝統もキリスト教に受け継がれる。表紙の作例でも、羊飼いの背景(画面右)にさまざまな格好をした羊たちの姿が描かれている。キリストに導かれる信者の群れが神と戯れる楽園の象徴を見ることができる。眼光鋭く、髭を蓄えた屈強な壮年男性として描かれた羊飼いの姿のうちに、キリストに託された希望の強さを感じることができる。
さて、A年である今年の福音朗読箇所はヨハネ10章1-10節。ここでは、イエスはまだ自分のことを羊飼いとは言っていない。1-10節のテーマは「門」である。この門から羊飼いも入り、羊も入る。イエスは「わたしは羊の門である」(7節)、「わたしは門である」(9節)と繰り返す。羊飼いが入る門であり(2節)、その羊飼いの声を聞き分け、その「門」すなわち「わたし(イエス)を通って入る者は救われる」(9節)と言われている。この文脈に限るなら、「羊飼い」は御父である神自身であり。イエスは御父と人間が出会うために開かれる門である。
このように、最初の10節で、イエス自身は、父である神に至る入口(門)であるという位置づけがクローズアップされているとするなら、キリスト教美術において描かれる、良い羊飼いは、キリスト像であるとともに、父である神のイメージであると考えるべきであろう。一人の羊飼いの姿がキリスト像であり、同時に御父像であるなら、そのことを二重に映し出す姿は、まさしく神の神秘への入口、門である。その周囲に描かれる羊たちの愛らしい姿も、羊飼いの肩に背負われている羊も、キリストに導かれ、神とともに平和を享受する信者の魂を表現している。
もちろん門であることは、単に人々が通っていく物理的空間という意味ではない。羊たちを正しく羊飼いたちのところに導くために、声をかけ、呼びかける生きた門である。結局、この羊飼いの姿から感じられるのは、羊たちを呼び、連れ、知る羊飼い(神)と、そこに導くキリストの働きである。御父と御子の働きの調和の中に、すでに人間は深く導かれている。神が人とともにあり、人もまた神とともにいる。神の意志と、人間の救いへの待望や希求がこの羊飼いと羊たちの光景のうちに結ばれている。この牧者の立ち姿と力強い眼差しのうちに神的威厳がみなぎっている。きょうの福音のイエスの声の強さと響き合う。
参照 オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html
2023年
4月
23日
日
復活節第3主日
パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった(福音朗読主題句 ルカ24・30-31より)
エマオでのイエスと二人の弟子
エグベルト朗読福音書
ドイツ トリール市立図書館 980年頃
表紙絵は、きょうの福音朗読箇所(ルカ24・13-35),エマオへ向かう弟子たちに復活したイエスが現れた場面の図である。二段に分けて描かれており、上は、朗読箇所の前半(27節まで)の、二人の弟子とイエスとの対話の場面に即している。二人の弟子の上には名前が記されており、(向かって)左はクレオパとなっている。これは18節に基づく。右の弟子はルカと記されている。福音書自体には名前が出ていない。しかし、この名前の言及されない弟子を、この福音書の著者ルカであると考えると、本文で自己の名前を伏せたのだとなんとなく察せられる。ルカ福音書だけがこのエピソードを記すことも、本人の具体的な経験に基づくとすれば、納得できるようになる。少なくとも、そのように写本画作者たちが考えていたという事実だけでも味わい深い。
三者の表情やしぐさ、姿勢には動きが感じられる。イエスの生涯の最後について弟子たちは「話し合っていた」(14節)。そこにイエス(弟子たちには、だれかはまだわかっていないが)が近づいて来て、二人に問いかける。二人は(かいつまむと)、ナザレのイエスという力ある預言者を、祭司長や議員たちが十字架につけてしまった。それから三日目になるが、墓を尋ねた婦人たちが遺体を見つけることができず、天使が現れ、「イエスは生きている」と言っているという――このような返答に対し、イエスは弟子たちの物分かりのなさを嘆き、聖書全体が自分(イエス)について書かれていることを説き明かす。そういう流れである。
絵の中のクレオパの姿勢は、右手の指でイエスに向かう。「ご存じなかったのですか……」(18節)と長々と主張しているところである。ルカはこの二人の対話を神妙に聞き取っている。イエスの左手には聖書。いつもは神のことばのしるしという意味合いだが、ここでは、まさにイエスによって初めて説き明かされる聖書そのものを表している。イエスの右手の指がまっすぐに天に向かっているところに、神のことばを説き明かそうとしている姿勢がうかがえる。
下段の絵は、エマオに到着してからの食事の場面。まず、福音書中ではエマオは村であり、そして、イエスは「一緒にお泊まりください」という弟子たちに答えて、「共に泊まるために家に入られた」(29節参照)と述べられるだけなのに、絵ではこの家があえて「エマオの城」と記されるほど「城」に転化されて描かれている。中世初期の写本画では、城のような建物があたかもイエスと人々や弟子たちとの間に起こる出来事の舞台となっている。聖書どおりではないといえばそうなのだが、これは、キリストの出来事がすでに神の国の次元にあることの象徴的表現である。城は、町そのもの、ひいては国を象徴するものだからである。
さて、その家で、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)。この叙述は感動の頂点であると同時に、さまざまな意味を含んでいる神秘の描写である。我々にとって、この瞬間にこそ、エウカリスティア(感謝の祭儀=ミサ)の根源がある。主キリストは、今も、ミサをささげる我々の中にともにおられ、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という行為を続けている。復活して今や天の父の右の座におられる御子キリストは、ことばとしるしをとおしてミサの中に現存し、我々と交わるのである。弟子たちは、ここに来る道すがら、イエス(だと分かった方)が聖書を説明してくれたことを思い起こしている(ルカ24・32参照)。
このようにして、エマオの弟子たちは、ミサの「とばの典礼」と「感謝の典礼」の根源をなす体験をしている。この体験を弟子たちが受け継いで大切に守り、感謝の祭儀という典礼が形成されるようになり、現代に至る。この絵がイエスと二人の弟子たちの出会いが起こる地面の色は、緑色と金色が混じったような色であり、背景も薄い金色のような光景である。神の栄光の輝きを受けて、三者が歩む地面は、永遠のいのちへの道となっている。
参照 : https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230305.html オリエンス宗教研究所
2023年
4月
09日
日
復活の主日
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに……」 (ヨハネ20・1より)
主のご復活おめでとうございます。
昨日の徹夜祭では2名の兄弟姉妹が洗礼を受けられました。
ローマのフランシスカ、ヨハネ・ボスコおめでとうございます。
そして、月寒教会の主任司祭として2年間司牧下さった後藤神父様が異動となり、今日が月寒教会の主任司祭として最後のミサとなりました。
どうぞ、これからも神のいつくしみと祝福が後藤神父様の上にありますようにお祈りいたします。