2024年

4月

07日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ2027より)

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2024年

3月

28日

聖木曜日

主の晩餐の夕べのミサ

 千葉新司祭による聖木曜日のミサが捧げられました。

「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

 

アーメン

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2024年

3月

24日

受難の主日(枝の主日)

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか (マルコ15・34より)

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2024年

3月

21日

ペトロ 千葉 充 助祭 司祭叙階式

3/20 午後2時からカテドラルにて千葉助祭の司祭叙階式が行われました。

おめでとうございます。

 

細くて狭い道を迷わないように神が照らしてくださいますようにお祈り申し上げます。

アーメン。

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2024年

3月

16日

四旬節第5主日

一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ(福音朗読主題句 ヨハネ1224より)

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2024年

3月

03日

四旬節第2主日

「わたしの父の家を商売の家としてはならない」 (ヨハネ2・16より)

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2024年

2月

18日

四旬節第一主日

この水で前もって表された洗礼は、今や……あなたがたをも救う (一ペトロ3・21より)

ノアの箱舟(上)とキリストが導く救いの舟(下)
ステンドグラス
パリ サンテティエンヌ・デュ・モン教会 16世紀

 
 表紙絵は、第一朗読で読まれるノアの洪水と契約の出来事(創世記6~9章)にちなみ、ノアの箱舟と、イエスによる救いの意味を対照させて描く出すステンドグラスの一場面である。ノアの箱舟は、上のほうに(しかも奥のほうに)描かれている。これがいわばイエス・キリストによる救いと新しい契約の前表(予型)として描かれている。もちろん、旧約でイメージされる舟はかなり大きなものであるのに対して、ここでは、ボート(小舟)のイメージである。右側に青い衣を着て、右手で杖を持っているのがノアである。
 この旧約の光景に対して、前景には、イエスが左側の舟の先頭にいて、舟の中には、たくさんの人々が描かれている。その衣装を見ると、教会の司教らしき人もいれば、16世紀のフランスにおける比較的身分の高そうな人々の姿も見える。いわば、その時代の社会を映し出す形で世界全体が、一つの舟のイメージで描かれているといってもよいだろう。その意味では、旧約のノア、イエス・キリストの時、そして、“現代”の教会ないしキリスト教社会がこの図をもって、重ね合わされているとも言える。“現代”の舟の中央の帆柱の上に、鳩の図が描かれているのは、キリストに導かれるこの世界は、聖霊によっても導かれていることを象徴的に描いているのだろう。
 きょうの朗読箇所の中で、ノアについては、第一朗読と第二朗読で二度言及される。
 第一朗読についてだが、まず一般論として、四旬節主日の第1朗読の配分のしくみを見ておく必要がある。
それは、旧約における救いの歴史のいわばダイジェスト的な想起となっているのでしる。B年の今年の展開は、第1主日にノアの契約、第2主日にアブラハムの試練、第3主日に十戒、第4主日にユダ王国の滅亡と回復、第5主日に新しい契約の預言が想起される。これは必ずしも年代順の振り返りではなく、旧約の歴史にあったイエス・キリストに向かっていく、それぞれの代表的局面(前表、予型)の想起といったほうがよい。目的はいかにしてキリストが神の計画の成就、時が満ちての、その実現であるかを知ることにある。
 きょうの第一朗読箇所である創世記9章8-15節の場合は、ノアに代表される人類とすべての生き物との間に結ばれた契約(いわゆるノアの契約)が結ばれるに至った決定的な経緯としての洪水に触れつつ、むしろ、肉なるものを(生き物)を決して滅ぼすことはしないという契約の内容と、雲の中の虹がそのしるしとなることが述べられている。救いの歴史は、神の人類との契約の歴史であることが明らかにされ、イエスによって結ばれる新しい契約の意味を考えるために大変大切な箇所である。
 第二朗読箇所である一ペトロ書3章18-22節の中で、ノアの時代の箱舟が想起されて語られている。変わった述べ方のようだが、「箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました」(20節)と語ることで、洪水と洗礼との関連づけをもって語られている。すなわち、洪水の水で「前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う」(21節)ということである。ここに「前もって表された」と書かれていることが、まさしく旧約の出来事をキリストの出来事の前表(予型)と解釈する見方の典型的なものである。ここでは、ノアの洪水と箱舟が、キリストの死と復活、そして教会で行われる洗礼の秘跡にとって、その意味を暗示するものとして語られているのである。8人の救い(創世記7・13参照)、そして救いの箱舟という見方から、洗礼堂が八角形で造られたり、聖堂の中央の会衆席空間を指す部分をラテン語で舟を意味するナヴィス(英語ネイブ)と呼ばれたりする慣習が生まれている。神の救いの計画の味わい方の伝統と言えるだろう。
 現代では、人類の乗る地球という箱舟は揺れに揺れている。神の計画の深さとキリストの死と復活の出来事が持つ意味の豊かさに心を向け、キリストの導きと聖霊の促しを求めながら、この四旬節を祈りの時としてしてゆきたい。

 

参照 : オリエンス宗教研究所

https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231029.html

2024年

2月

04日

年間第5主日

「忘れないでください、わたしの命は嵐にすぎないことを」(ヨブ1・7)

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2024年

1月

21日

年間第3主日(神のことばの主日)

ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った(ヨナ3・3より)

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2024年

1月

07日

主の公現

主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ60・1)

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2023年

12月

24日

主の降誕 (夜半のミサ)

「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2・11)

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2023年

12月

03日

待降節第1主日 B年

「わたしたちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」(1コリント1・7)

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2023年

11月

05日

年間第31主日

「仕える者になりなさい」(マタイ23・11)

今日は「死者の日」のミサをケン神父様によって行われました。

この1年間で帰天された月寒教会の諸聖人のお名前を読み、皆でお祈りいたしました。

私たちも永遠のいのちへ招いておられるキリストと諸聖人の食卓に交わることができますように。

 

また、今日はケン神父様の霊名記念である10/16「聖ジェラルド・マイエラ」のお祝いとして

月寒教会信徒から霊的花束と生花をお贈りいたしました。

ケン神父様、霊名記念日おめでとうございます。

「修道士の鏡」として貧しい人や病人をご奉仕し多くの回心を促した聖ジェラルド・マイエラを模範として

司祭生活をおくることができますようにお祈りいたします。

 

アーメン

 

 

 

 

2023年

10月

29日

年間第30主日

「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」

  (マタイ22・37-39より)

 

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2023年

6月

11日

キリストの聖体

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物(ヨハネ6・55より)

 

今日は集会祭儀で「キリストの聖体」の祝日をお祝いしました。

2023年

6月

04日

三位一体の主日

栄光は父と子と聖霊に。神は今あり、かつてあり、また来られるかた(アレルヤ唱より)

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2023年

5月

28日

聖霊降臨

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…… (使徒言行録2・1より)

 

 四旬節、復活節を経て教会は聖霊降臨祭を祝います。

日々、典礼で読まれる聖書に触れながら、イエスの受難、十字架の死、復活を通して、祈り、黙想しながら神様の救いの御業(みわざ)をみてきました。

 主の昇天後、弟子たちは約束された聖霊を待ち望みながら、エルサレムの町の一つの家に集まり心を合わせて熱心に祈っている姿が使徒言行録に描かれています。婦人たち、イエスの母マリアもおられます(1:14)。

 聖霊降臨祭は、教会の誕生を祝います。心を合わせて一つになって祈る姿は、教会の姿の基本ではないでしょうか。弟子たちは、過越祭から五十日目に当たる五旬祭に至るまで、主の過ぎ越し、復活の神秘について日に日に思いを巡らしていったことでしょう。

 使徒言行録2章では、五旬祭の日、激しい風が吹いてくるような音、炎の舌が分かれ分かれに現れ、一人一人にとどまり、皆、聖霊に満たされて霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出します。その様子を絵の上半分は表しています。雲は、神の現存を示し、7つの炎は聖霊の7つの賜物(上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬)を示しています。炎の舌を与えられ、聖霊に満たされてみ言葉を宣べ伝える力を受けた弟子たちは、聖霊に導かれて外に向かって扉を開けて宣教に出発します。私たちも教会で典礼にあずかり、救いの神秘を祝い、心を一つにして祈り、聖霊に満たされてみ言葉に生きる力をいただいています。ですから、心の扉を開けて信仰の喜びを伝えていけますようにと願いを込めています。

 この表紙絵は、2012年度の週刊『こじか』誌で連載させていただいた「扉を開けてー光さすところへ」というタイトルで、旧約と新約聖書の響き合いをテーマにした内容の締めくくりに描きました(2013年2月10日付)。そのテーマの扉は、聖書の扉を開けて、聖霊に心を開いてという意味合いも込めました。

 

「わたしたちも心を一つにして神様をたたえる喜びを受けましょう。

さあ扉をあけて信仰の喜びを伝えていきましょう。」(作品タイトル)

(作家 原田陽子 記)

 

聖書朗読箇所について(『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 聖霊降臨と呼ばれる出来事を伝えるのはきょうの第1朗読箇所である使徒言行録2章1-11節。祭日である「聖霊降臨の主日」では、この箇所がA年、B年、C年を通じて、いつも読まれる。この出来事の背景を知るためには、その前の1章12-26節も重要である。使徒たちはエルサレムに戻ってきて、ある家に泊まっていた。そこで、イスカリオテのユダが抜けて11人になっていた使徒団の中で、新たにマティアが選ばれて加入する。ここを踏まえると、聖霊降臨の場面にいる使徒は12人となる。この聖霊降臨を描く絵は、表紙絵の上の部分のように「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という使徒言行録2章3節の叙述を主題に、天から注がれる聖霊を鳩の姿で描き、その口から出る炎が使徒たち(その中央にマリアが描かれることもある)の頭上に注がれるという形で描かれることがしばしばである。

 使徒言行録は、聖霊降臨をイエスの復活から50日目の歴史的出来事として描くが、決して、過去のひとときに起こった一種の奇跡としての意味を持つわけではない。ここで描かれているのは、キリストと教会の普遍的な恒常的関係を実現させる聖霊の存在とその働きが描き出されている。これは、聖霊降臨の主日の福音朗読箇所が、いずれもヨハネ福音書から読まれることとも関係する。

 その最も典型的な朗読箇所が今年A年のヨハネ福音書20章19-23節である。イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」という場面(20・22参照)である。ここには、もちろん創世記の伝える人類の創造の場面が背景にある。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2・7)である。小さな空間の中での復活したイエスと弟子たちとの間になされた聖霊の授与の行為が、全人類史的な転換の意味を持っていく。ここに教会、神に生きる人類の誕生がある。キリスト者は共同体として、聖霊の働きのもとに導かれているが、このことを生き生きと感じられるのは、もちろん、典礼においてであろう。典礼の集いと心を合わせて祈るその祈りは、まぎれもなく聖霊の恵みであり、この祈りを通して聖霊の働きを生き生きと感じつつ、我々はキリストと結ばれている神の子どもたちであることを実感することができる。

 このような意味で、聖霊降臨は、教会の誕生(この日の集会祈願参照)の記念でもある。そして、使徒言行録の叙述でも、聖霊は、一同を一つにするとともに、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(使徒言行録2・3)と、一人一人の個性や人々それぞれの故郷の言葉による宣教の始まり(6節)が語られている。個性豊かな使徒たちの宣教の始まりである。教会には、きょうの第2朗読箇所(一コリント12・3b.12-13)が教えるように、多様な賜物、務め、働きがあるが、すべて一つの霊によって一致している。

 聖霊、そしてキリストの体による一致と個々の使命への派遣、教会の生き生きとしたあり方の核心をなすことが、きょうの聖書朗読を通して語られ、この、神に活かされる生命力といったものが表紙絵の彩りの豊かさと同時に、しっかりとした構図を通しても十二分に感じられる。聖書のことばとともに、味わっていこう。

 

参照 オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html

2023年

5月

21日

主の昇天

天に上げられたイエスは、……同じ有様で、またおいでになる (使徒言行録1・11より)

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2023年

5月

14日

復活節第6主日

わたしを愛する人は、わたしの父に愛される(ヨハネ14・21より)

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2023年

5月

07日

復活節第5主日

わたしは道であり、真理であり、命である (ヨハネ14・6より)

 

マリア様の月に入り、マリア様に冠を被せる「戴冠式」がケン神父神父様りより行われました。

 

 

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2023年

4月

30日

復活節第4主日

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(ヨハネ10・10より)

 

良い羊飼いと羊の群れ

石棺彫刻(部分)

ローマ ラテラノ美術館 3~4世紀

 

 復活節第4主日は伝統的に良い牧者(羊飼い)の主日と呼ばれており、現在もA年・B年・C年ともにヨハネ福音10章から朗読箇所が選ばれている(A年=10章1-10節、B年=10章11-18節、C年=10章27-30節)。このことから全体を通して、自分の羊を呼び、導く羊飼いに対し、その声を聞き分け、従う羊たちという関係がこれらの箇所を通じて主題となっている。復活節の朗読の展開としては、新しく入信した人々とともにすべての信者が神に導かれる民としての心やあり方を新たにするという位置づけにある。それとともに、ここは、神からの召命を聞き分けるという主題にちなんで、世界召命祈願日ともされている。

 復活節第4主日のこの特徴に関連して、表紙絵では、良い羊飼いとして描かれる古代キリスト教美術の作品をおもに鑑賞している。羊を肩に担ぐ羊飼いの姿は、初期キリスト教美術で数多く描かれている。この主題は、ギリシア・ローマ美術に由来するものだが、キリスト教においては、特にこのヨハネ10章の譬えを踏まえて、信者の魂を担い導く救い主の姿として描かれていった。とくに、カタコンベ(地下墓所)の壁画や、石棺の彫刻によく描かれている。このように、死者に関係する場に描かれたのは、異教芸術にはなかったキリスト教美術の特徴といわれる。これは、羊飼いのうちに、死者の魂を天に運び、来世への旅路に待ち受ける悪霊の力に打ち勝つ救い主の姿を託したものといわれる。ここには純粋に聖書的なイメージというより、死後の幸福を願う、どの民族にもある観念も流れ込んでいたであろう。キリスト教美術とはしばしばそのようなもので、それによって、キリスト教の教えを人々の身近な生活感覚や心の中に浸透させていった。そのことによって、現代の我々にも、核となる福音のメッセージとともに、その時代を生きた人々の心の綾(あや)を垣間見させてくれるのである。

 牧場の風景を楽園の光景として描くという、もう一つの異教芸術の伝統もキリスト教に受け継がれる。表紙の作例でも、羊飼いの背景(画面右)にさまざまな格好をした羊たちの姿が描かれている。キリストに導かれる信者の群れが神と戯れる楽園の象徴を見ることができる。眼光鋭く、髭を蓄えた屈強な壮年男性として描かれた羊飼いの姿のうちに、キリストに託された希望の強さを感じることができる。

 さて、A年である今年の福音朗読箇所はヨハネ10章1-10節。ここでは、イエスはまだ自分のことを羊飼いとは言っていない。1-10節のテーマは「門」である。この門から羊飼いも入り、羊も入る。イエスは「わたしは羊の門である」(7節)、「わたしは門である」(9節)と繰り返す。羊飼いが入る門であり(2節)、その羊飼いの声を聞き分け、その「門」すなわち「わたし(イエス)を通って入る者は救われる」(9節)と言われている。この文脈に限るなら、「羊飼い」は御父である神自身であり。イエスは御父と人間が出会うために開かれる門である。

 このように、最初の10節で、イエス自身は、父である神に至る入口(門)であるという位置づけがクローズアップされているとするなら、キリスト教美術において描かれる、良い羊飼いは、キリスト像であるとともに、父である神のイメージであると考えるべきであろう。一人の羊飼いの姿がキリスト像であり、同時に御父像であるなら、そのことを二重に映し出す姿は、まさしく神の神秘への入口、門である。その周囲に描かれる羊たちの愛らしい姿も、羊飼いの肩に背負われている羊も、キリストに導かれ、神とともに平和を享受する信者の魂を表現している。

 もちろん門であることは、単に人々が通っていく物理的空間という意味ではない。羊たちを正しく羊飼いたちのところに導くために、声をかけ、呼びかける生きた門である。結局、この羊飼いの姿から感じられるのは、羊たちを呼び、連れ、知る羊飼い(神)と、そこに導くキリストの働きである。御父と御子の働きの調和の中に、すでに人間は深く導かれている。神が人とともにあり、人もまた神とともにいる。神の意志と、人間の救いへの待望や希求がこの羊飼いと羊たちの光景のうちに結ばれている。この牧者の立ち姿と力強い眼差しのうちに神的威厳がみなぎっている。きょうの福音のイエスの声の強さと響き合う。

 

参照 オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html

2023年

4月

23日

復活節第3主日

パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった(福音朗読主題句 ルカ24・30-31より)

 

エマオでのイエスと二人の弟子

エグベルト朗読福音書

ドイツ トリール市立図書館 980年頃

 

 表紙絵は、きょうの福音朗読箇所(ルカ24・13-35),エマオへ向かう弟子たちに復活したイエスが現れた場面の図である。二段に分けて描かれており、上は、朗読箇所の前半(27節まで)の、二人の弟子とイエスとの対話の場面に即している。二人の弟子の上には名前が記されており、(向かって)左はクレオパとなっている。これは18節に基づく。右の弟子はルカと記されている。福音書自体には名前が出ていない。しかし、この名前の言及されない弟子を、この福音書の著者ルカであると考えると、本文で自己の名前を伏せたのだとなんとなく察せられる。ルカ福音書だけがこのエピソードを記すことも、本人の具体的な経験に基づくとすれば、納得できるようになる。少なくとも、そのように写本画作者たちが考えていたという事実だけでも味わい深い。

 三者の表情やしぐさ、姿勢には動きが感じられる。イエスの生涯の最後について弟子たちは「話し合っていた」(14節)。そこにイエス(弟子たちには、だれかはまだわかっていないが)が近づいて来て、二人に問いかける。二人は(かいつまむと)、ナザレのイエスという力ある預言者を、祭司長や議員たちが十字架につけてしまった。それから三日目になるが、墓を尋ねた婦人たちが遺体を見つけることができず、天使が現れ、「イエスは生きている」と言っているという――このような返答に対し、イエスは弟子たちの物分かりのなさを嘆き、聖書全体が自分(イエス)について書かれていることを説き明かす。そういう流れである。

 絵の中のクレオパの姿勢は、右手の指でイエスに向かう。「ご存じなかったのですか……」(18節)と長々と主張しているところである。ルカはこの二人の対話を神妙に聞き取っている。イエスの左手には聖書。いつもは神のことばのしるしという意味合いだが、ここでは、まさにイエスによって初めて説き明かされる聖書そのものを表している。イエスの右手の指がまっすぐに天に向かっているところに、神のことばを説き明かそうとしている姿勢がうかがえる。

 下段の絵は、エマオに到着してからの食事の場面。まず、福音書中ではエマオは村であり、そして、イエスは「一緒にお泊まりください」という弟子たちに答えて、「共に泊まるために家に入られた」(29節参照)と述べられるだけなのに、絵ではこの家があえて「エマオの城」と記されるほど「城」に転化されて描かれている。中世初期の写本画では、城のような建物があたかもイエスと人々や弟子たちとの間に起こる出来事の舞台となっている。聖書どおりではないといえばそうなのだが、これは、キリストの出来事がすでに神の国の次元にあることの象徴的表現である。城は、町そのもの、ひいては国を象徴するものだからである。

 さて、その家で、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)。この叙述は感動の頂点であると同時に、さまざまな意味を含んでいる神秘の描写である。我々にとって、この瞬間にこそ、エウカリスティア(感謝の祭儀=ミサ)の根源がある。主キリストは、今も、ミサをささげる我々の中にともにおられ、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という行為を続けている。復活して今や天の父の右の座におられる御子キリストは、ことばとしるしをとおしてミサの中に現存し、我々と交わるのである。弟子たちは、ここに来る道すがら、イエス(だと分かった方)が聖書を説明してくれたことを思い起こしている(ルカ24・32参照)。

 このようにして、エマオの弟子たちは、ミサの「とばの典礼」と「感謝の典礼」の根源をなす体験をしている。この体験を弟子たちが受け継いで大切に守り、感謝の祭儀という典礼が形成されるようになり、現代に至る。この絵がイエスと二人の弟子たちの出会いが起こる地面の色は、緑色と金色が混じったような色であり、背景も薄い金色のような光景である。神の栄光の輝きを受けて、三者が歩む地面は、永遠のいのちへの道となっている。

 

参照 : https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230305.html オリエンス宗教研究所

2023年

4月

09日

復活の主日

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに……」 (ヨハネ20・1より)

 

主のご復活おめでとうございます。

 

昨日の徹夜祭では2名の兄弟姉妹が洗礼を受けられました。

ローマのフランシスカ、ヨハネ・ボスコおめでとうございます。

 

そして、月寒教会の主任司祭として2年間司牧下さった後藤神父様が異動となり、今日が月寒教会の主任司祭として最後のミサとなりました。

どうぞ、これからも神のいつくしみと祝福が後藤神父様の上にありますようにお祈りいたします。

2023年

4月

02日

受難の主日 (枝の主日)

「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27・54)

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