わたしの服に触れたのはだれか (マルコ5・30より)
きょうの福音朗読箇所は全体としてマルコ5章21-43節が対象となっている。ここには会堂長ヤイロの娘を瀕死あるいは一旦死んだ状態から回復させるというエピソード(5・21-24、35-43)がありつつ、その真ん中に出血病の女のいやしのエピソードが挿入されている。この二つのエピソードの同じような組み合わせは、マタイ9章18-26節とルカ8章40-56節にもあるが、マタイはとても短く、ルカと比べてもややマルコのほうが詳しい。原型をマルコに見ておくことができるし、主日の福音朗読においてこのエピソードが読まれるのは、マルコ福音書が基本的に読まれるB年のこの主日だけである。その意味で、三つの福音書を比べることも含めて、この二つのエピソードをじっくり鑑賞する意味が今年はある。かなり長いので、短い朗読の場合は、出血病の女のエピソードは略されることになるが、今回、表紙絵は、このエピソードにちなんで掲載されている。
イエスの前(画面向かって右側の人々は会堂長ヤイロやその一行が3人の人物として、後ろには弟子が3人、先頭に緋色のトガをまとったペトロがいる。本文では「大勢の群衆」(マルコ5・21、24)あるいは「群衆」(同5・27、30、31)ということばが頻出しているが、絵ではこれらの人物に限定して描写している。その両者の真ん中に立つイエスの、右手を上げ、人指し指と中指を伸ばしている姿は、神のことばを語り、神の力を及ぼそうというときの定型的なしぐさである。頭の光輪が示すように、すでに主としての神的尊厳のうちにある。
その足元で、出血に苦しむ女が身をかがめ、イエスの衣の裾に触れようとしている。マルコの叙述によると、この女は「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(マルコ5・27)。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(29節)とある。この瞬時の出来事は、絵画表現は難しい。絵は、イエスの服に触れようとしている様子にとどまる。あるいは、この姿のうちに、既にいやされたことを感じて、「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」(33節)に至る女の気持ちが表現されていると言えるかもしれない。
イエスは頭だけを後ろ向きにしている。「群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」(30節)に当たる。この場面での鍵となるセリフであり、ここから女の告白になり(5・33)、イエスによる救いの宣言になる。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)。この語りかけは、解放でもあり、女の信仰を義と認め、その告白を受け止め、いやしをもたらした、まさに神のわざを果たしつつ、その意味を告げる力あることばである。
イエスのことを聞いて、救い主であることを察知し、服に触れたことのうちに、すでに信仰の行為、信仰告白の行為があり、それが受け入れられ、「安心して行きなさい」と告げられる。これは病苦からの解放のことばでもあり、派遣のことばでもある。元気に日常に戻るのであるにしても、それは、神から「行きなさい」と告げられて始まる新しい生活への、一つの使命を帯びて派遣されることにほかならない。もしかしたら、この女はイエスにつき従う女性の弟子たちの一人となったかもしれない。そして、そのイエスとのエピソードが残されたのかもしれない。もちろんこれは推測だが、この女とイエスとの出会いが伝えられていったことは、病に苦しむ人にとってのまさしく福音にもなっている。イエス・キリストによりすがること、ありのままを語ること、願いを包み隠さず明らかにすることのうちに、神のいやしとゆるしと解放の力が働いてくることを信じ、希望することができるのである。
「安心して行きなさい」というイエスのことばは、ミサの派遣のことばにもつながるものとしても味わうことができる。「行きましょう」と式文では訳されている「イーテ・ミッサ・エスト」(直訳すれば、「あなたがたは行きなさい。解散されました」という意味の閉会の句)も、考えようによっては、解放の宣言であり、派遣への出発の合図でもある。ミサ全体が我々をいやし、ゆるし、力づけ、安心を与えてくれる、そのような神の力あるわざそのものである。
参照元 : オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240602.html