2023年9月17日 年間第24主日

七の七十倍までも赦しなさい  (マタイ18・22より)

 

荘厳のキリスト 

大理石浮彫

フランス トゥールーズ サン・セルナン大聖堂 1100年頃

 

 きょうの福音朗読箇所はマタイ18章21-35節、「ゆるし」「あわれみ」がキーワードとなっている内容である。先週の罪を犯した兄弟に対する忠告の勧めもそうだが、イエスに従う弟子としての生き方を教える話が続く。きょうの箇所では、冒頭で自分に罪を犯した兄弟がいた場合、何回赦すべきかという問いが示される。それに対して、イエスは「七の七十倍まで」という強調をもって限りなく赦しなさいと答える(18・21-22参照)。

 続いて、一つのたとえが語られる。主君から借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に借金をしている仲間を容赦しなかったところ、主君が怒り、その家来を牢役人に引き渡した、と物語る。この趣旨は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたと同じようになさるであろう」(35節)とまとめられており、それは、否定表現による警告的な内容である。しかし、これの全く肯定的な内容が、マタイ福音書では、主の祈りの教えのあとに語られている。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(6・14)とあるところである。結局、これらの譬えをもって語られているイエスの教えは、「主の祈り」の意味を説き明かすものと言える。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目にある人を赦しましたように」(6・12)という願い、教会での主の祈りの本文「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」とともに、マタイが伝えるイエスの教えを思い起こしていく必要がある。そこには、神の憐れみと赦しは限りない、という聖書の教える神の姿が根底にある。第一朗読のシラ書27章30節~28章7節も答唱詩編(詩編130・3,4,8,11,12,13)もこの教えにはっきりと連なっている。

 ちなみに、マタイの譬えの中で、返済を待ってほしい、と主君の前でひれ伏し、しきりに願う家来(26節参照)に対して主君は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)とあるところで語られる「憐れに思う」という動詞(33節の「憐れんで」も同じ)は、しばしば解説されるように原語のギリシア語は「はらわたを痛める」というのが文字通りの意味の語である。旧約聖書のヘブライ語も背景にして、神が人の痛みや苦しみをともにし、いてもたってもいられずに助ける原動力となる気持ちを表すことばである。ルカ福音書の放蕩息子の譬え(ルカ15・11-32)の中でもキーワードとなっている(ルカ15・20)。「憐れみ」と訳されるこのことばのもとに、神の憐れみ、赦し、慈しみ、愛の心が凝縮されている。

 このような味わい方を深めていくために、きょうの表紙絵では、慈悲に満ちた姿の「荘厳のキリスト」像(浮彫)が掲げられている。サン・セルナン大聖堂という名のもとになっているのは、フランス、トゥールーズの初代司教とされる3世紀の殉教者聖サトゥルニヌス。その崇敬の高まりとともに、4世紀に大聖堂の最も古い部分が建設され、11世紀末に初期ロマネスク建築の大聖堂が建立され、スペインのサンチァゴ・デ・コンポステラへの巡礼路にある重要な教会となる。「荘厳のキリスト」像は、祭壇周廊を飾る大きな七つの大理石の浮彫の一つで、作者もわかっており、ベルナール・ジルドゥアン(ベルナルドゥス・ギルドゥイヌス)という。

 「荘厳のキリスト」とはラテン語でマイェスタス・ドミニと呼ばれるもの(直訳は「主の荘厳さ」)。天上の玉座に座すキリスト像で、四福音書を象徴する翼を有する四つの生き物に取り囲まれているように描くのが特徴である。玉座の主と四つの生き物に関しては黙示録4章2-9節が直接の典拠であるが、この黙示録の表象自体、イザヤ6章1-4節、エゼキエル1・4-28節が踏まえられている。ここでは、右上に人(マタイ)、左上に鷲(マルコ)、右下に獅子(ヨハネ)、左下に雄牛(ルカ)が配置されている。

 主キリストの、慈しみに満ちた穏やかな表情が印象深い。左手の書物の上に書かれている文字はPAX VOVIS(パックス・ヴォヴィス=「あなたがたに平和」で、ヨハネ福音書による最後の晩餐でイエスが弟子たちに告げる「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ1427)や復活して弟子たちのところに現れたイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」(20 1926)がもとになっている。もちろん、現在のミサの交わりの儀で告げられる主のことばに直結する。このキリスト像は、ミサにおられるキリスト、天に昇り父の右の座に着き、今、ミサの中で、神の民の祈りを御父に届けるキリストの姿を映し出しているものと考えることができる。再び来られるまで、我々がその死と復活を告げ知らせるところの主キリスト、パウロが「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ148=きょうの第二朗読)と告白するキリストのことを、この像とともに思い続けてみたい。

 

オリエンス宗教研究所

https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230903.html