年間第16主日

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい(福音朗読主題句 マタイ13・30より)

 

終末の刈り入れ 

バンベルク黙示録 

ドイツ バンベルク国立図書館 10世紀 

 

 譬え話で用いられている表象に基づいて、内容を絵画にすることはとても難しい。きょうの福音朗読箇所マタイ13章24-43節(=長い朗読の場合)、または13章24-30節(=短い朗読の場合)は、いわゆる「毒麦」の譬えであるが、この話の主旨は、良い麦と毒麦を描いても伝わらないだろう。表紙絵では、終末の裁きを、刈り入れのときに鎌が入れられることに譬える黙示録14章14-20節にちなむ『バンベルク黙示録』の挿絵を掲げている。絵の詳細はむしろ黙示録を参照していただきつつ、きょうの福音朗読の主題句にもなっている「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13・29)や「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(同13・39)と関連させて、この譬えを味わう手だてにしたい。

 ところで、きょうの「毒麦」の譬えは、マタイ福音書のみが伝えるものである。長い場合の朗読箇所が示すように、この譬えのあとに語られる「からし種とパン種」の譬え(マタイ13・31-33)が他の共観福音書(マルコ4・30-32;ルカ13・18-21)にもあるのとは違っている。さらに、「毒麦」の譬えについては、これまたマタイだけの記事としてその解説がある(マタイ13・36-43)。この解説は、譬えの具体的な表象の意味を一つ一つ説き明かし、終末の刈り入れ、すなわち最後の審判についての教えである、としているところも、黙示録の内容と触れ合うところである。そこでは、「良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(38節)と端的に解説され、それら両方があるのが「畑」すなわち世界であると説かれる。その上で、譬え話の本体を見ると、やはり、主題句にもなっている畑の主人のことば「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)というメッセージが、主イエス自身のことばとして響く。そこには、毒麦とよい麦を人間が仕分けること、悪い麦を取り除くこともできないこと、刈り入れ、すなわち裁きはあくまで神ご自身のするである、という諭しがある。

 毒麦=ドクムギ(イネ科)は、実際、一つの植物で、麦と似ていて見分けがたく、成長すると互いに根が絡んで、毒麦だけを引き抜くのは難しいという。そのため、収穫直前になってまず毒麦だけを抜き集めることになっていたという(『聖書植物図鑑』教文館刊より)。ドクムギの生態や扱い方を実によく反映させた譬えとしても注目されるほどである。収穫のときまで、「両方とも育つままにしておきなさい」というメッセージをもとに考えると、この地上世界そのもの、そして、生きている人類、そしてその中にいる神の民キリスト者も、この良い種と毒麦との「両方が育つままにして」おかれている場所であり、両方が含まれている存在である、ということを痛切に感じさせられる。そして、それは、おそらく世界と人間と信者の現実でもある。このような現実性にイエスが深く目を注ぎ、譬えをもって教えていること自体驚くべきことである。

 そのような地上世界に「育つままに」させられている限り、良い種を育てること自体、我々の自由にゆだねられている。その責務・使命が大きい、という呼びかけがまず響いてくる。同時に、人類そのものに、またどの共同体にも、どの個人の生き方の中でも「毒麦」が混じる可能性を免れてはいない、という極めて現実的な認識に導かれる。それゆえにこそ、またいっそう神の導きと慈しみに信頼する力が深く呼び起こされる。第1朗読箇所(知恵12・13, 16-19)が述べるにように、「力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる」(18節)ことを悟り、神の民は、希望と回心へと導かれる(19節参照)。毒麦もよい麦も入り混じる地上の現実に生きることは、このような神の導きを信頼しつつも、悩み深いものであろう。第2朗読箇所となっているローマ書8・26-27節は、そのような現実に生きる信仰者の心情を“霊”への信頼として語っている。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8・26)と。福音と旧約をよく結ぶ使徒のメッセージである。

 

 

オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230723.html