年間第14主日

見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってくる(ゼカリヤ9・9より)

 

エルサレム入城

『リウトルト朗読福音書』(通称)の挿絵

オーストリア ウィーン国立図書館 12世紀後半

 

 きょうの福音朗読箇所は、マタイ11章25-30節。「天地の主である父よ」から始まる前半は、父への祈り(27節まで)で、28節からは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(28節)に始まる万人へのメッセージである。その中から朗読の主題句「わたしは柔和で謙遜な者である」は29節からとられている。福音朗読箇所と主題的な関連で配分されている第1朗読箇所(ゼカリヤ9・9-10)の主題句を見ると、「見よ、あなたの王が来る。彼は高ぶることがない」となっている(9節参照)。このように、きょうの聖書朗読では、柔和で謙遜な(高ぶることのない)王(メシア=救い主)であるキリストが焦点となっている。

 表紙絵では、これにちなみ、イエスのエルサレム入城の絵が掲げられている。ここでは今年の受難の主日(枝の主日)の枝の行列と祝福のときに朗読されたマタイ福音書21章1-11節と見比べながら、鑑賞してみよう。ほぼ真四角の空間の中で、ろばに乗るイエスは(向かって)左から右へと進んでいる。「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」(マタイ21・8)と書かれてある部分は、絵では、(向かって)右端にいる二人の人物の描写にまとめられている。下は自分の服を道に敷く人を象徴、上の木に登ってイエスを見つめている人は、木の枝を切る人を象徴しているのではないか、と思われる。いずれにしても、イエスを救い主として迎える人々を象徴している。イエスの後ろにいる人のうちには奥に弟子たちが描かれているのかもしれないが、前のほうに見えるのはイエスのことを不審に思う身分の高い人々であるようである。このような対照を通して、イエスの受難への道が暗示されている。

 マタイによるエルサレム入城の叙述では、この出来事が預言者のことばの実現としている。引用句は、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21・5)である。このゼカリヤ書のことばは、まさしくきょうの第一朗読箇所(ゼカリヤ9・9-10)に基づくものである(エルサレム入城の場面を記す四福音書の中でゼカリヤを引用するのはマタイのみ)。ゼカリヤ書9章9節自体は、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って」とある。

 ゼカリヤ書本文の「高ぶることなく」にあたるところが、マタイの引用句では「柔和な方」となっている。福音書における旧約聖書の引用がギリシア語訳(七十人訳聖書)に基づくことによる用語変更といえるが、そのことに留意しつつ、きょうの福音朗読箇所を見ると、イエスは自分のことを「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11・29)と語っている。これは、まさに、ゼカリヤ書の「高ぶることなく」とマタイによる引用句の「柔和な方」を総合した表現である。イエス自身の「わたしは柔和で謙遜な者」のうちに、預言された“王”である“救い主”との自覚がにじみ出ている。絵の中のイエスも、まさに青紫の衣(高貴な身分や支配者の象徴)を身にまとい、右手は荘厳な祝福のしぐさをしている。威厳ある方でありつつ、柔和で謙遜な方――それこそがキリストらしさである。

 謙遜という語は、人間関係や社交的な場での謙虚さ、遠慮がちな、控えめといった人徳を連想させるが、聖書でいう「謙遜」は、なによりも、神のみ前での低さを主題としている。神の前で高ぶらず、人間が自らの分を超えることなく、創造の恵みによって与えられた自らのあり方に徹し、神のみ心に従うあり方である。イエスが来られたのは、そのあり方が不調和に陥ったときに、そのあり方を回復し、さらに高めるためであった。神が与えてくれた尊厳あるあり方がキリストによって回復され、さらに高められている、その新たな尊厳の源にキリストがおり、キリストに学ぶべき弟子たちとしてキリスト者がいる。神の前での人間のへりくだりは人間らしい尊厳ある自由に満ちたものであろう。十字架でのキリストはその極みをあかしする(ここで、受難の主日の詠唱=フィリピ2・7-9にもなっているフィリピ書2章1-11節も味わいたい)。

 もう一つの興味深いことに、きょうの福音朗読箇所のうち前半のマタイ11章25-27節の内容は、ルカ10章21-22節とほぼ同様であるのに対して、後半28-30節は、全福音書中マタイだけが伝えるイエスのメッセージである。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」――それだけにマタイが伝えるきょうのイエスのことばは、エルサレム入城の箇所やその背景になっているゼカリヤの預言をも含めて照合が求められ、おのずと深い黙想に誘われる。

 最後に一点、心に留めておきたい。エルサレム入城についてマタイが記す群衆の賛美のことば「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ21・9。マルコ11・9-10も参照。背景には、詩編118・25-26がある)は、ミサの「感謝の賛歌(サンクトゥス)」の後半の句となっているものである。この賛歌によって迎えている聖なる救い主が、なによりも「柔和で謙遜な」方であることを思い続けることにしたい。

 

オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230618.html