わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(ヨハネ10・10より)
良い羊飼いと羊の群れ
石棺彫刻(部分)
ローマ ラテラノ美術館 3~4世紀
復活節第4主日は伝統的に良い牧者(羊飼い)の主日と呼ばれており、現在もA年・B年・C年ともにヨハネ福音10章から朗読箇所が選ばれている(A年=10章1-10節、B年=10章11-18節、C年=10章27-30節)。このことから全体を通して、自分の羊を呼び、導く羊飼いに対し、その声を聞き分け、従う羊たちという関係がこれらの箇所を通じて主題となっている。復活節の朗読の展開としては、新しく入信した人々とともにすべての信者が神に導かれる民としての心やあり方を新たにするという位置づけにある。それとともに、ここは、神からの召命を聞き分けるという主題にちなんで、世界召命祈願日ともされている。
復活節第4主日のこの特徴に関連して、表紙絵では、良い羊飼いとして描かれる古代キリスト教美術の作品をおもに鑑賞している。羊を肩に担ぐ羊飼いの姿は、初期キリスト教美術で数多く描かれている。この主題は、ギリシア・ローマ美術に由来するものだが、キリスト教においては、特にこのヨハネ10章の譬えを踏まえて、信者の魂を担い導く救い主の姿として描かれていった。とくに、カタコンベ(地下墓所)の壁画や、石棺の彫刻によく描かれている。このように、死者に関係する場に描かれたのは、異教芸術にはなかったキリスト教美術の特徴といわれる。これは、羊飼いのうちに、死者の魂を天に運び、来世への旅路に待ち受ける悪霊の力に打ち勝つ救い主の姿を託したものといわれる。ここには純粋に聖書的なイメージというより、死後の幸福を願う、どの民族にもある観念も流れ込んでいたであろう。キリスト教美術とはしばしばそのようなもので、それによって、キリスト教の教えを人々の身近な生活感覚や心の中に浸透させていった。そのことによって、現代の我々にも、核となる福音のメッセージとともに、その時代を生きた人々の心の綾(あや)を垣間見させてくれるのである。
牧場の風景を楽園の光景として描くという、もう一つの異教芸術の伝統もキリスト教に受け継がれる。表紙の作例でも、羊飼いの背景(画面右)にさまざまな格好をした羊たちの姿が描かれている。キリストに導かれる信者の群れが神と戯れる楽園の象徴を見ることができる。眼光鋭く、髭を蓄えた屈強な壮年男性として描かれた羊飼いの姿のうちに、キリストに託された希望の強さを感じることができる。
さて、A年である今年の福音朗読箇所はヨハネ10章1-10節。ここでは、イエスはまだ自分のことを羊飼いとは言っていない。1-10節のテーマは「門」である。この門から羊飼いも入り、羊も入る。イエスは「わたしは羊の門である」(7節)、「わたしは門である」(9節)と繰り返す。羊飼いが入る門であり(2節)、その羊飼いの声を聞き分け、その「門」すなわち「わたし(イエス)を通って入る者は救われる」(9節)と言われている。この文脈に限るなら、「羊飼い」は御父である神自身であり。イエスは御父と人間が出会うために開かれる門である。
このように、最初の10節で、イエス自身は、父である神に至る入口(門)であるという位置づけがクローズアップされているとするなら、キリスト教美術において描かれる、良い羊飼いは、キリスト像であるとともに、父である神のイメージであると考えるべきであろう。一人の羊飼いの姿がキリスト像であり、同時に御父像であるなら、そのことを二重に映し出す姿は、まさしく神の神秘への入口、門である。その周囲に描かれる羊たちの愛らしい姿も、羊飼いの肩に背負われている羊も、キリストに導かれ、神とともに平和を享受する信者の魂を表現している。
もちろん門であることは、単に人々が通っていく物理的空間という意味ではない。羊たちを正しく羊飼いたちのところに導くために、声をかけ、呼びかける生きた門である。結局、この羊飼いの姿から感じられるのは、羊たちを呼び、連れ、知る羊飼い(神)と、そこに導くキリストの働きである。御父と御子の働きの調和の中に、すでに人間は深く導かれている。神が人とともにあり、人もまた神とともにいる。神の意志と、人間の救いへの待望や希求がこの羊飼いと羊たちの光景のうちに結ばれている。この牧者の立ち姿と力強い眼差しのうちに神的威厳がみなぎっている。きょうの福音のイエスの声の強さと響き合う。
参照 オリエンス宗教研究所 https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html