復活節第3主日

パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった(福音朗読主題句 ルカ24・30-31より)

 

エマオでのイエスと二人の弟子

エグベルト朗読福音書

ドイツ トリール市立図書館 980年頃

 

 表紙絵は、きょうの福音朗読箇所(ルカ24・13-35),エマオへ向かう弟子たちに復活したイエスが現れた場面の図である。二段に分けて描かれており、上は、朗読箇所の前半(27節まで)の、二人の弟子とイエスとの対話の場面に即している。二人の弟子の上には名前が記されており、(向かって)左はクレオパとなっている。これは18節に基づく。右の弟子はルカと記されている。福音書自体には名前が出ていない。しかし、この名前の言及されない弟子を、この福音書の著者ルカであると考えると、本文で自己の名前を伏せたのだとなんとなく察せられる。ルカ福音書だけがこのエピソードを記すことも、本人の具体的な経験に基づくとすれば、納得できるようになる。少なくとも、そのように写本画作者たちが考えていたという事実だけでも味わい深い。

 三者の表情やしぐさ、姿勢には動きが感じられる。イエスの生涯の最後について弟子たちは「話し合っていた」(14節)。そこにイエス(弟子たちには、だれかはまだわかっていないが)が近づいて来て、二人に問いかける。二人は(かいつまむと)、ナザレのイエスという力ある預言者を、祭司長や議員たちが十字架につけてしまった。それから三日目になるが、墓を尋ねた婦人たちが遺体を見つけることができず、天使が現れ、「イエスは生きている」と言っているという――このような返答に対し、イエスは弟子たちの物分かりのなさを嘆き、聖書全体が自分(イエス)について書かれていることを説き明かす。そういう流れである。

 絵の中のクレオパの姿勢は、右手の指でイエスに向かう。「ご存じなかったのですか……」(18節)と長々と主張しているところである。ルカはこの二人の対話を神妙に聞き取っている。イエスの左手には聖書。いつもは神のことばのしるしという意味合いだが、ここでは、まさにイエスによって初めて説き明かされる聖書そのものを表している。イエスの右手の指がまっすぐに天に向かっているところに、神のことばを説き明かそうとしている姿勢がうかがえる。

 下段の絵は、エマオに到着してからの食事の場面。まず、福音書中ではエマオは村であり、そして、イエスは「一緒にお泊まりください」という弟子たちに答えて、「共に泊まるために家に入られた」(29節参照)と述べられるだけなのに、絵ではこの家があえて「エマオの城」と記されるほど「城」に転化されて描かれている。中世初期の写本画では、城のような建物があたかもイエスと人々や弟子たちとの間に起こる出来事の舞台となっている。聖書どおりではないといえばそうなのだが、これは、キリストの出来事がすでに神の国の次元にあることの象徴的表現である。城は、町そのもの、ひいては国を象徴するものだからである。

 さて、その家で、イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)。この叙述は感動の頂点であると同時に、さまざまな意味を含んでいる神秘の描写である。我々にとって、この瞬間にこそ、エウカリスティア(感謝の祭儀=ミサ)の根源がある。主キリストは、今も、ミサをささげる我々の中にともにおられ、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という行為を続けている。復活して今や天の父の右の座におられる御子キリストは、ことばとしるしをとおしてミサの中に現存し、我々と交わるのである。弟子たちは、ここに来る道すがら、イエス(だと分かった方)が聖書を説明してくれたことを思い起こしている(ルカ24・32参照)。

 このようにして、エマオの弟子たちは、ミサの「とばの典礼」と「感謝の典礼」の根源をなす体験をしている。この体験を弟子たちが受け継いで大切に守り、感謝の祭儀という典礼が形成されるようになり、現代に至る。この絵がイエスと二人の弟子たちの出会いが起こる地面の色は、緑色と金色が混じったような色であり、背景も薄い金色のような光景である。神の栄光の輝きを受けて、三者が歩む地面は、永遠のいのちへの道となっている。

 

参照 : https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230305.html オリエンス宗教研究所